::誰に視点を置いて物事を捉えるか。
どこに自分の視点を置き換えて物事を見るか?
それによって物事の見え方が大きく変わる。

ステップファミリーという家族の形は、そういう見方を余儀なくさせられる場面が非常に多いと思う。

わたしは実母であり、継母である。
時に実母としての視点で、時に継母としての視点で物事を見る。
けれども継母としての自分を意識する場面に偏る事が多い。
それは多分自分自身へのシバリがそうさせる。
『…でなければ』『…感じる自分は間違っている』などがシバリだ。

主人も実父であり継父。
我が家の場合、彼の視点は実父としてのそれが大半だと感じる。
子どもに接する時間が限られるので、スポットで見る場面で全体を判断しようとしているからか。
スポットで見るそれが期待するもので無いので後に引きずるようだ。

またそれぞれの親の視点、
わたしの親は実孫に、義理親も実孫にやはり偏る。
表面的な部分では当然それを意識させられるような言動は無い、
長く付き合っていく中でその偏りはところどころで表出する。
ただ、共に生活をしていないという距離感が、子ども全体を見られる余裕に繋がる部分があるようだ。

そして外部の人々もそれぞれに置かれた立場によって、視点が違う。

同じ立場である継母の友人だと、視点は限りなくわたしと似ている。
なので共感し合える話が出来る。
同じ友人でも実母の立場であれば、子どもからの視点で物事を捉えられる事も多い。

又、子どもの立場でも実子の立場・継子の立場によって見え方は全く異なるのだろう。

わたしはまだ継子として育った人と直接語り合った経験は無い。
ネット上で経験談を読んだ程度だが、
差別をされて辛かった、という話もあれば、義理親子関係はとても良いという話もある。
継子と言っても母親の連れ子なのか、父親の連れ子なのかによってもまた視点が全く異なると想像できる。

実子側の経験談は、その立場であったリアルの友人がいた。
母親の連れ子であったが、親の再婚によって母親を取られたという気持ちを子どもの頃強く持っていたと言う。
母親からの愛情は受けていたと感じているが、新たに出来た義理兄妹や継父は受け入れられなかったと友人は語っていた。
とにかく早く家を出たかったと。
この友人からは「実子ちゃんが可哀想だ」と言われる。

まだまだ様々な視点があるのだろう。

よくステップファミリーにおいて継母がストレスを溜める度合いが高いと言われるが、
それは上のようなあらゆる視点での意見を受ける立場に立たされる場面が多いからではないかと思う。
家族全体としての見方では無く、必ずどこかにウエイトを置いて意見は出される。
そのどの意見も『間違い』でもなく『正解』でもない。
当事者である我々が取捨選択していけたらいいと思う。

悩みを抱えている継親さんの多くはどこの視点によって交わされた意見かによらず、
その意見が肯定的か否定的かに惑わされ、自身を追い詰めてしまっているように感じる。

再婚し新たな家族の形を構築していく夫婦が、その視点を家族全体のそれに向けていけたらいいと思う。

立場の違いと視点の違いによる物事の見え方は自分自身にも大いにある。
時に耳を塞ぎたくなるような意見を見聞きする機会もあるが、
そこはわたしが学んでいるSAJでも言われている『相手の立場を思いやり立場の違いを受け入れる』だと考えるようにしていきたい。

相手を思いやり立場を受け入れるためには、まず自分の感じ方を否定しない。
その為には自身の育てられ方だったり、知らず知らずのうちに刷り込みされている考え方の元となっている部分にも目を向ける必要がある。

なーんて、またカチコチの内容です^^;
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::考え方の癖を変える
『頭では分かってるけど…』
『頭では理解出来てるけど、思った通りに行動出来ない』

これステップファミリーになってパートナーや継子と接するようになり、
葛藤にガンジガラメになった時、いつもそう思っていた。

わたしだけで無く、他のステファの方からもよく聞かれたセリフ。
もちろん主人も常々そう言ってる。

「親になろうと思わなくていいんだよね、それは分かっているんだけど」
「実子のように愛さなければと思う必要も無いんだよね、分かるんだけど」

でも、形としては『親子』である以上、親的役割をしなければならない。
そして実子への気持ちと継子への気持ちの差に罪悪感を感じる。

「分かっているんだよ、パートナーを大切にしたら実子にもよい関わりをしてくれるって」
「分かっているんだよ、実親の役割を求めちゃいけないって」

けれど実際は継親から継子の愚痴や不満を聞かされると、
継子を庇う発言をしてしまったり、
継親の実子と継子への関わり方に区別を見ると、
実親のように関わってくれと思ってしまう。

ステファの発達を学び、それを理解したつもりでいても、
直面する場面に遭遇するとその学びは実践されず活かされない。

わたしもそうである。

継親になると当然起こり得る葛藤をテキストや書籍で読み、
家族として安定するのに年数が必要だと理解していても、
他所の一般家庭との比較に燃え尽きそうになってしまったり、
投げ出しそうになってしまった。

そしてテキストや書籍に書いてある事を、
『そんなの所詮理想よ』と本を置いてしまいこんでしまった時期がある。

継子を実子と同じように愛さなくても大丈夫。
ただ、大人が子どもに接する節度は必要。

そんな記載に関しても、『それが出来ないから苦しんでいるんだ』と。

最近、そんな考え方に一つヒントを得る事があった。
(※別なところでも同様な記事を書いたけど…)




ステップで上手くやれている家族との出会いである。
SAJ
関係で集まりがあり、そこで感じた事を少し。

上手くやれている人というのをわたしは誤解していた。
主人も同じ事をよく言っているのだが。

それは『上手くやれているのはごく一握りの特殊な人達だよ』というもの。
かなり強引な言い方だけど、
それくらいステップの葛藤を乗り越えるのは困難だと感じているから出るセリフ。

しかし、わたしが出会った『上手くステップファミリー』をしている人達は、
何も『特殊』な人間では無かった。
話をしていて、感じ方はわたしと変わらない。

では何が違うのか?

一言で言えば、『繰り返しの学習』

分かり難い表現で申し訳ない^^;
要するに考え方の癖を学習を繰り返す事によって強化している、という事。

もっと分かり易く…、
例えば娘ら小学生の足し引き算。
しっかり学んできたつもりでも、日々足し引き算をやっている娘や息子の方が計算が早かったりする。
何故なら、毎日それを学校で繰り返し学習し計算で日々用いているから。
なので必要な時にそれをすぐに取り出せるのだろう。

冒頭の『分かっている』は『分かったつもり』ではないのか。
テキストなどを一通り読み分かったつもりでいるだけで、
それを活かせる程には『分かっていない』(身についていない)のではないか。

同様にステップの発達や葛藤を当然の如くとした学習を繰り返す事によって、

発達に達していない現状を嘆いたり、
投げ出したりする手前で学習した事を容易に引き出せるようになるのではないか。
又、葛藤する気持ちも(この葛藤は誰しも通る道)だという風に、
自分自身を肯定的な見方をする事が出来るのではないか。

するとどうだろう、
とても気持ちが楽になってはこないか?

一瞥してしまい込んでいたテキストや書籍を繰り返し読み、
いつも目にするようにする事によって、考え方や感じ方の癖を変えていく事は可能かもしれない。

…上手く気持ちのオトシドコロを見つけた人達は、
毎日の生活でそれを活かす為に、知識を頭に叩きこんだんだ。

会話の向こうにそれを発見した。

とわたしは勝手に思ったので、目の付くところにテキストを置き、
いつでもそれを手に取れる状態にしてチャレンジ中である。
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::キレイ事でない子育て
キレイ事でない子育て

継母として…だけでなく、実母としてもこう思う。

『子育てはキレイ事だけでは済まない』

当たり前っちゃあ、当たり前の事なんですが^^;
今回はステップ関連ではありません。

いつだっけか、ニュース番組内の特集で、
育児放棄をした動物園の動物(種類は忘れた)の話をやっていた。
その母親動物は飼育員に育てられた為、自分が子どもを産んでも育て方が分からない。
なので、出産後赤ちゃんを放置してしまう。
飼育員がどうにか子育てをするように促すが、
赤ちゃんが命の危険にある状況になってしまった為、
仕方なく、また飼育員が子育てをする事になった。

…という話だった。

と言う事は、その赤ちゃんもまた大きくなり、
子どもを産んだら同じ事を繰り返すんだろうな。

人で言うところの連鎖か?

この話の場合では、動物だったので、
その母親動物が責められるような話では無かったが、
人であった場合、その母親は当然責められるのだろう。

人もこういう部分は同様だと思うんだけど、どうだろう。

もちろん、人は理性があるし、
あらゆる情報を手に入れて学ぶ事も出来る。
けれど、机上で得た知識と実際の育児は違うように思う。

親に育てられなかった子どもは、
大人になり子を儲けても育児放棄をしないよう努力が必要じゃないだろうか。
又、親に育てられても不適切であったりするのなら、
やはり不適切に育てないような努力が必要じゃないだろうか。

でも、実際努力だけでどうにかなる問題なのか。
イヤ基本的にはどうにか努力するべきだろう。

でもどう頑張っても、親側に育てる気持ちが無い、
育てる能力が無い、
と言う事を当事者ですら、産んだ後に気付く事だってあるんじゃないかな。

わたしはそういう事があってもおかしくないと思う。

私自身、子どもを出産する前に毎月何冊かマタニティ雑誌を愛読していたが、
産後の生活の楽しい面ばかりが書かれていたように思う。
写真付きで登場する妊婦さんや産後のママたちはキレイでおしゃれで、
赤ちゃんは皆笑顔で。

だから実際、産後の寝られない時期の本当の辛さや、
乳首が切れる痛みなどは、
産後になってみて初めて知った事だった。
『もうっ!』とイライラする気持ちになった時に、
上の雑誌に出ていたママたちと、どうしてわたしはこんなに違うのかと凹んだ。
キレイでおしゃれなんて程遠いいでたちで、
笑顔より泣いてばかりのあかんぼを目の前にこんなハズでは、と思った。

赤ちゃんが育てられない時、
赤ちゃんが可愛くない時、
赤ちゃんを育てる気持ちが無くなった時、
赤ちゃんを育てる気が最初から無い時、
そんなテーマでの雑誌がそこらで買えるといい。
具体的な方法や、実際的な対処法、
それらが分かると選択肢が広がり気持ちが楽にならないか?
キレイ事の育児雑誌や育児本が一般的だとしたら、
それから外れた自分を自分自身で追い詰め、取り返しがつかない状態になりはしないか。
それなら、楽しいばかりでは無い『育児の雑誌』があったらいいのに。
そして、育てる事をやめたいと思った時に、意地クソで不適切に育てるよりも、
適切に子どもを育ててもらえる、里親さんのような方々に見てもらえたら。

今回、書いてみたかったのは、
上のニュースの育児放棄をした母親動物も飼育員ではなく、
(仮に動物をクマとしたら)
同じクマの里親的な役割をする母グマが育ててくれたら、
育児放棄はしなかったのでは?と思ったから。

人も同じく育てる気持ちが無かったり、育てる能力が無い場合、
飼育員(児童養護施設)では無く
【↑乱暴ですいません】
里親さんであったらいいのに。
親だったら、子どもを産んだ以上…育てなければならない、じゃなくてもいい場合もあると思う。
無理ならば、別な育てる力のある人にお願いしたらいいのだと思う。
又、育て方に関しても、画一的なマニュアルに添わない場合も、
育児本や自分の育てられ方にコダワラズ、育児のプロに泣きついていいと思う。

出来るだけ育てる側は余裕を持って、楽しみを見出せる育児が出来たら、
それは子どもにとっても楽しく過ごせる環境を与える事に繋がるだろうから。

そんな事をレイさんのブログを読んで感じた。

そして、わたし自身も、
マニュアルタイプな性格だけど、育児本に書いて無い育て方をまた今後必要に迫られた際、
「分からない」
「育て方が分からない」
「どうしたらいいの?!」
と、恥ずかしがらずに臆する事無く方々に聞いて回り、自分の育てられ方を正しいとせず、
正直に「どうやって育てていいか分からない」と言えるようにしたいと思う。
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::親に虐待された子どもは、自分をいじめる相手に近づく
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上記サイト内の下記ページが考え方について、新しい視点のヒントとなりました。
外傷性転移
私たちが憂鬱になるとき
親に虐待された子どもは、自分をいじめる相手に近づく
【ページ内文書の複写や転載、引用、改変は禁止です。】とありました。
リンクはOKです。

息子の言動に何故だどうしてだ?!と怒ってみたり、その原因を探ったり。
検索したり、助言を頂く中で息子の心理や行動の背景の理由は、
おおよそ分かったようなつもりになっているが、
結局…(ここが自分の資質の低さだと認識)、
特定の誰かと繋がれる為の密接な関わりが無かったからだと頭での理解はあっても、

あなたなんてどうでもいいよ。
いつでも僕はあなたと離れてあげる。
あなたと一緒に居たいとは思ってないよ。
あなたじゃなくても構わないよ。
たまたまあなたが親みたいな事してるから、いてあげてるだけだよ。
あなたの代わりなんていくらでもいるよ。

こんな挑発的メッセージを発せられていると、
息子の心理状態や言動の背景に想いを至らせようと理性で考えられなくなり、
次第に苛立ち、その結果挑発にまんまと(?)乗せられた恰好になってしまう。
頭での理解(理性)を保つ事が私にとっては困難。

全く挑発的な言動にのらないという事が求められる資質だとは思うのだけど、
そのやり方・方法が見出せない。

上にリンクしたページではそんな堂々巡りな自分にヒントがあった。
これで、はい解決。とはならないだろうが少しは持ちこたえる力になるかも。

私の言葉で言い換えるなら、問題行動と言われる言動や挑発的な言動は、
それを安心して出せる場に現在はいるから。
安心出来る場を与えられている証拠でもあるんだよ。

都合の良い解釈です。

けれどそう考える事によって、感情的に挑発に乗る回数が減らせるなら、
自分を褒めておいてもいいだろう
心置きなく怒りを表現出来る環境を与える事が出来てるのは、
他ならぬ私のお陰よって。

ふざけたようなオチにしてしまった。
結果オーライなら心でどう考えててもいいんじゃないか。
そんな方法(視点)に閃いた気分です。
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::基準は育てられ方
人を見下したり、差別する心は生まれながらにしてあるものでは無く、
その育てられ方によって基準が決まるのかな。

何も見下す、差別するだけに限らず、
ほとんどの基準は育てられ方に拠るところが大きい。

そして私を育てた親も、また親にそのように育てられたはず。
息子の言動や考え方が資質に拠るものでないのなら、
又、私の考え方も資質に拠るものではないと考えてもいいのか。

虐待の連鎖、は言葉としてよく見聞きするが、
全ては『育てられたように育つ』そして『育てられたように育てる』か。
ただ、後半の『育てられたように育てる』は気付きがあれば変更可能かと。

息子の養育をしていく中で、私が気付いたのは、
『子どもってこうこうあるベキ』
〜ベキ論、が私にはとても多い。
子どもらしさの定義がガチガチに固い。
なので例外に出くわすとカルチャーショック並みの衝撃を受ける。
柔軟性が全く無いのだ。
この考え方の柔軟性の無さはそう育てられたからか?

親の基準がそのまま自分の基準になっており、
育児において、密室とまではいかないが、
【地域で子育て】なんてどっかの誰かが言ってるだけ。
実際、地域に助けてもらった事など無い。(私の場合は)
育児についての大半の相談事や手助けは親か育児本(マニュアル)にしてきた。
そこで得られる助言は当然、私の育てられ方と同じである。

息子の子どもらしくない言動に対し、私が『○○するのよ、信じられないでしょ?』
と親に話せば『本当ね、そんな事するの?!』と共感してもらえる。
と言うか、そう考えるように育てられているから当たり前か。
…共感を得られれば基本的に私はうれしい。
(共感をしてくれる人を選んでいるとも言う)
私の中では(親だってそう思うんだもの、私は間違っていない)と、
自分の感じ方を確信してしまう。

しかし、ネットを通じて助言を下さる方の中には、
子どもらしさに関して、違った見解を示してもらえる。
それは私への否定でも非難でも無く、
子どもの側に立った物事の見方や感じ方。
また私のような親から見たら『裏切り』と見える言動に対しても、
子どもなりの理由がある事。

子どもらしさに対するコダワリが少し変化している。
書いている事によって気付きをもらえた。

これは精神面での【地域で子育て】かもしれない。
やはり育児は一人でするべきでないなぁ。
いろんな人が口を挟む環境が必要なのかも。
井戸端会議と言われるそれも実はかなり重要かも。

再婚してからの苦悩は人に話す事を躊躇う。
「分かって一緒になったんでしょ」と言われそうだから。
そこがステップの落とし穴かもしれない。
悩みは周りに大騒ぎしながら訴えよう。
継子を(今は)大切に想えないという気持ちも話してみたらいいと思う。

自分の感じ方が全てでは無いという『気付き』をたくさんもらえた。
『育てられたように育てる』を『育てられたように育てない』に変える。
良い部分は残して、間違った部分は訂正しよう。
自己を否定するような作業のようにも感じるが、その考え方故に苦しんでいるのなら、
捨てた方が誰にとっても良いはず。
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