::嫌悪感は自分の中
被虐待児が体験する心の世界と援助者の心に生じる逆転移感情
愛知淑徳大学 江口 昇勇
八楽児童寮  熊谷多希子
愛知淑徳大学心理臨床相談室紀要 第7号 2003,3,1

上の論文は、私にとってとても参考になりました。
特に「投影の引き戻し」

我々にできることはせいぜい辛抱強く、諦めないで彼らの存在そのものにひたすら関心を忘れずに待ち続けることだけではないか。そして、攻撃していた相手の要素が、実は自分自身の中にある、自分が認めたくないもの、汚らわしい、嫌らしい、醜い、わがままな自分の中のこころであるとして、自分は、自分で責任を持って引き受けることができるなら、限りなく、相手にやさしくなれるし、何より、自分自身にやさしくなれる。


ここに思い当たる部分の多かった事。
息子の子どもらしくないところ…、

大人の顔色を窺う。
大人がどうしたら喜ぶかが、自分の言動を決める。
大人に何を求められているかを考えてしまう。

私が特に息子のこういった部分に過剰反応し、
だから…可愛くないのよ。
可愛いと思われなくて当然よ。
などと、自分の気持ちを正当化してきた。

自分の子どもの頃、親に自分自身を尊重されてこなかった、
やれて当然。
だから認めてもらえるまで頑張る。
でも、どこまで頑張っても、もっともっととキリが無い。

少し前にも書いたが「あなたの人生は負けだ」の親からの言葉。
勝たなきゃいけない?何に?
そのままの自分を認めてはもらえなかった私は多分息子と同じモノを持っている。

それに嫌悪感を抱き続けてきた。

自分の同様な部分を認める事を置き忘れて、息子のその部分に敵意を持っていた。
息子を育てる事になり、自分自身認めてこなかった自分というものを、
同時進行になってしまうが、見つめ直す事が必要だと思った。

併せて、思い付く事の一つに『比較』。
息子と娘を比較し、自分自身の首を絞め続けている事も、
他ならぬ私が比較をされ続けているからだと。

子どもを持ち、自分の育てられ方をこんな形で考えるとは思っていなかった。

まだ取り返しがつくのかな?

ダメな母親でごめんね。
自分が親にされてきた事を冷静に振り返ってみよう。
上の論文を読んでそう感じた。
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::児童相談所、担当者の涙
先日、久々家族揃って児童相談所での面談でした。
主人が単身赴任から戻り、初めての面談。

最近の傾向として、息子中心の内容から夫婦関係が多いです。
今回も同様に夫婦関係…
というよりステップファミリーについての話し合いとなりました。

私達を受け持って下さってる担当者は本当に素晴らしい方で、
偶然の出会いに感謝してます。
(私にとっては、であり主人にとっては多分そうでないと思う)
私が素晴らしいと思う点としては、
『心の通った話をして下さる』から。
上手くいかない事があっても、方法論を教えるでは無く、

どうしようねー、どういう風になったらいいと思う?
こういう風に考えられたら楽だよね。
充分頑張ってるから、小さい事はいいよ。

いつもそのような言葉を掛けてくれる。
否定・非難は全くされた事が無い、不思議な程に。
そしてそのようにして頂けると、自ずと反省点が見出せたりする。
人からあーしろこーしろと言われるより、
自らの気付きで成す事は例え思う通りに事が運ばなくとも、
誰かを責める事は無い。
どこが間違ったのか?何が至らなかったのか?
次へのステップに繋げていける。

これも人の気持ちを動かす手法なんだろうか?
だとしたらまんまと乗せられているのだろう(苦笑)
しかし、そうだとしても全くイヤな気持ちにはならない。
むしろ益々私はこの担当者が好きだ。

面談が終わるといつも清々しい気持ちになれる。
随分と考え方も柔軟になり、明日への活力が湧く感じ。

 今回は、ステップファミリーでの夫婦関係について。
私は息子といる事が時々苦しくなる時がある。
それは、主人の気持ちが私より息子にあると感じる時。
私の気持ちより息子の気持ちを優先させていると感じる時。
きっかけは些細な事が多いのだが、どうしようもなくその事実に囚われる。

そんな時、私は息子と一緒に居られなくなる。

先日も些細な事からそう感じ、家族皆での外出が苦痛であった。
息子と一緒に外出はしたくなかった。
そう主人に告げた時、
「あいつを村八分にするのか」と言われた。

その話を担当者に話すと、
「お父さん、お母さんがそういう風に言うのは『ヘルプ』なんだよ」
ぞーうさんご家族とは、もう何年の付き合いになるかな?
結局はここが問題なんだよね、
逆にここさえ何とかなれば、上手くいくのはとても簡単だよね。
ステップファミリーにおいて、継母の悩むところはここに起因する事が多いんですよ。

私(継母)か連れ子か?
どれだけ自分(継母)は想われているのか?

根底は『不安』なんですよ。

その不安さをお母さんがお父さんに助けを求めた時、
お父さんは崖っぷちにいるお母さんを突き落としているんですよ。
そこに気付いて下さい。

お母さんが息子(継子)を拒否している時は、お母さん自身苦しいんです。
だって、家族でやっていくというのは決定事項でしょう?
村八分にしたくて家族でやっていこうなんて思う訳ないでしょう。

どうかお父さん、お母さんがそうヘルプを出している時は、
同じ場所まで行って
「苦しいね、苦しかったね」
「一緒に俺も頑張るからね」
そうしてあげて下さい。

お父さんのしている事は崖っぷちにいるお母さんに、
遠く離れたところから(俺は関係無い)言葉によって更に追い詰めているんです。

分かってあげて、お父さん。
お母さんはそうしたくて、そうしているのでは無いんです。

元々の親子の中に後から入っていく継親は、
お父さんが意識してない些細な事で不安になるんです。
そうなると、継子の事を受け入れられない気持ちになったり、
自分がソコに留まっていてはいけないような、
象徴的な存在になったりするんです。

そう話をしてくれながら、担当者は涙を流していた。

感情移入されたのだろうか。
こんなに一生懸命私に寄り添ってくれた人が居ただろうか?
本当は主人にそうであって欲しい。
でも、つられて涙ぐみながら本当に良い人に担当者になってもらえたと強く思った。

何だか主人だけそっちのけで、私と担当者とで通じ合えて感動してしまった。

心理の先生というのは、私達のようなクライアント(?)とは
一線引いた存在であるように常々感じていたが、
今回の事でグッと身近に感じ、心強いサポーターに支えてもらえている事に、
本当に感謝したい気持ちで一杯になった。

今後も主人のそっけない態度や言葉に、
投げ出したい気持ちになるだろうが頑張れそうな気持ちである。

※ちなみに恋愛感情みたいに読めてしまうが、担当者は女性である。
念の為。

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::面会時の様子
児童養護施設に息子がいた頃面会(外泊)に通っていました、
その時の様子を書いてみます。

面会、外出、外泊とありましたが私達の場合は、大半が外泊でした。
特に制限も無かったのでそれが可能だったのでしょうが、
そうとも限らない場合もあるようです。

私は外泊で迎えに行く事が実はとても苦痛でした。
愛着行動が無かったり被虐待児の行動特徴だったりで、
息子が迎えに行く私達を歓迎しないという事は知識としてあったつもりです。
けれども実際にその振る舞いを目の前にするのは、本当に苦痛でした。

施設に入所させていた頃、私は息子に毎日電話をしていました。
(一時的に中断した事もあります)
その電話も正直楽しいものではありませんでした。
電話を歓迎されないからです。
待ち望まれていない電話を一方的にしていたから。
息子が気を使うのは電話の向こう側にいる、施設の仲間だったからです。
集団での生活を考えれば、息子が喜んでくれるだろうと私がしていた事は、
周りの子らから、からかわれたり妬まれたりする事だったのでしょう。
なので電話を早く切りたがったり、周りの子との会話の為「ちょっと待って」と、
何度も中断させられたりで、電話をする事は虚しい気持ちにさせられました。
今になって思えば自己満足だったのかもしれません。

電話の時点でも既にそのような息子の様子だったので、
迎えに行ったりした時の様子も想像に難しくないと思う。

実際の言葉としては、
「車で迎えに来るなら行ってもいいけど、電車なら来なくていい」
「○○君と約束してるから、行きたくない」
しかし言葉として言われた事よりも、非言語的なメッセージの方が私は嫌な気持ちになった。

例えば…、

玄関先で待つ私達のところへ出てくる息子の、
行っても行かなくてもどっちでもいいという態度。
私達に気付いても目を合わさず、視線の先は常に周りの子たち。

そういう風に振る舞う事は仕方が無いと、理性で考えてはいても
やはり気持ちが萎える。
その為に都合をつけて時間をやりくりした事に全く見合わない。
こんな事ならもっと楽しく過ごす時間が持てたのに。
嫌がる子を無理に連れに行った訳では無いが、
どうでもいいという態度を毎回示されてその次に繋げて行く事は、
本当に虚しい作業の繰り返しのような、
いっその事やめてしまいたくなる気持ちを毎回押し殺しながらの面会・外泊で、
そんな気持ちを持ちつつ迎えに行って、又そのような息子の態度を見るという、
悪循環としか思えないこの面会・外泊は苦痛であった。

しかし一旦施設を離れると、今度はうって変わり非常に楽しく過ごしているように見えた。
自宅に戻ると先程までの気を使う相手が私達に移っただけなのだが。
そこに
『もしかして…』
『やっぱり家に帰りたいんだろうか』
などと期待を抱くのだが、それは施設に送って行く時に打ち砕かれてしまう。
「そろそろ施設に戻るよ」の言葉に何の躊躇いも見せず、リュックに荷物を詰める。
道中、息子の様子からは特別何も窺い知る事は出来ないでいた。
そして、施設に到着すればほとんど振り返る事も無く他の子らの元へと向かって行く。

自宅へ戻る私達は押し黙ったまま。
ただただ疲労感だけが残った。

今回、過去の話であるこの記事を書いたのは、
自分自身への戒めでもあるが、子どもの上に書いた様子だけで、
子どもは家族を(親を私を)求めていない。
施設の方がいいと思っている。

などと考えようとする癖を外したいと思ったから。
施設での生活や、息子の育った環境や周りの大人との関わり、
それらを踏まえて考えると、

家(家族)がいいのでも施設がいいのでも無く、
ただ周りの大人によって振り回された結果、行けと言われた場所で適応しているだけ。

こちらが考えるような事は、多分考えて行動していない。

子どもは適応しているに過ぎない。

私はいつも行動に対してその行動を起こす理由(気持ち)を考えがち。

家には来たくないのね。
施設の子らの方が大切なんだ。
あれ、やっぱり家がいいの?
と思ったら勘違いだったのね、やはり施設がいいんだね。
施設とは違う生活をたまに味わいたいだけ?

あれやこれやごちゃごちゃと考えてしまう事に意味は無い。
心理状態と言動の意味を学ぶ事は重要だと思うが、
それらを知識として持ってはいても、こちらが子どもの言動に一喜一憂し
別な意味で振り回されていてはならないかな。

※【参考pdf】トラウマを受けた子どもの心理学的分析―被虐待児―への治療的な関わり
新宮 一夫
鈴鹿医療科学大学 保健衛生学部 医療福祉学科
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::親に虐待された子どもは、自分をいじめる相手に近づく
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上記サイト内の下記ページが考え方について、新しい視点のヒントとなりました。
外傷性転移
私たちが憂鬱になるとき
親に虐待された子どもは、自分をいじめる相手に近づく
【ページ内文書の複写や転載、引用、改変は禁止です。】とありました。
リンクはOKです。

息子の言動に何故だどうしてだ?!と怒ってみたり、その原因を探ったり。
検索したり、助言を頂く中で息子の心理や行動の背景の理由は、
おおよそ分かったようなつもりになっているが、
結局…(ここが自分の資質の低さだと認識)、
特定の誰かと繋がれる為の密接な関わりが無かったからだと頭での理解はあっても、

あなたなんてどうでもいいよ。
いつでも僕はあなたと離れてあげる。
あなたと一緒に居たいとは思ってないよ。
あなたじゃなくても構わないよ。
たまたまあなたが親みたいな事してるから、いてあげてるだけだよ。
あなたの代わりなんていくらでもいるよ。

こんな挑発的メッセージを発せられていると、
息子の心理状態や言動の背景に想いを至らせようと理性で考えられなくなり、
次第に苛立ち、その結果挑発にまんまと(?)乗せられた恰好になってしまう。
頭での理解(理性)を保つ事が私にとっては困難。

全く挑発的な言動にのらないという事が求められる資質だとは思うのだけど、
そのやり方・方法が見出せない。

上にリンクしたページではそんな堂々巡りな自分にヒントがあった。
これで、はい解決。とはならないだろうが少しは持ちこたえる力になるかも。

私の言葉で言い換えるなら、問題行動と言われる言動や挑発的な言動は、
それを安心して出せる場に現在はいるから。
安心出来る場を与えられている証拠でもあるんだよ。

都合の良い解釈です。

けれどそう考える事によって、感情的に挑発に乗る回数が減らせるなら、
自分を褒めておいてもいいだろう
心置きなく怒りを表現出来る環境を与える事が出来てるのは、
他ならぬ私のお陰よって。

ふざけたようなオチにしてしまった。
結果オーライなら心でどう考えててもいいんじゃないか。
そんな方法(視点)に閃いた気分です。
勝手な考察  コメント(4)   トラックバック(0)  △ page top


::一人で居られないのは不安だから?
誰でもいいから人の集まりの中にいたい、群れていたい。
特定の誰かと一緒にいる事ではなく、
集団に属しているという事実が目的のように見える。

対人関係について、一人で居る事が出来るタイプとそうでないタイプ。

集団行動といえば、私にとっては学校生活。
私は前者タイプだった。
ちなみに主人もそうだったらしい。
一人でいる事が苦で無い、一人でいる事を特別好むのとは違う。
だから、いつも群れている子らを何だか必死だなぁと少し冷めた感じで見てた。

女子によくある、ツルんでトイレというのもどうして?と思ってた。
登下校も分団でのそれが無くなってからは、基本的には一人で、
たまたま誰かと居合わせれば一緒に。

なので、息子のとにかく集団(群れる)でいたいというところが理解し難い。
私も主人も首をかしげている。
主人はその理由を「不安だからじゃないか?」と言っている。
息子のそれは少し度を越しているから。
人と一緒に居たがる行動を考えると、
愛着を持てないとも違うように見える。
むしろものすごく人に対して愛着を示す行動。
人を求めて一生懸命。
けれどもそれは特定の人じゃないという事。
自分の気持ちなどは後回しにしても厭わず迎合していく程なのに。

群れている子らを冷めた目で見ていた自分なので、
息子のそういう面を見ると、苦手なタイプの人を見る目になっている。
いやだなぁという目で見てる。
愛着障害  コメント(4)   トラックバック(0)  △ page top


::ジーアイジー【GIG】!
ほのぼのネタ。

ウルトラマンメビウス(最近終わった)が家の子らはみんな大好き
その中でタイトルの「ジーアイジー!」の掛け声があります。
「了解」とか「問題なし」のような意味合いで使われる言葉なんですが、

娘や次男は私から何かを言われると「ジーアイジー!!!」とお返事するのが、
ここ数ヶ月、我が家の流行りとなってます。

さっき学校から戻った長男が長女と次男と向かいの公園に遊びに行く際、
私の「気を付けてよー」に対し「…ジ・ジーアイジー」(ぼそっ)と
そして玄関先で娘に「ママに初めて『ジーアイジー』って言っちゃった」(照)とうれしそうに報告。

聞こえてるぞ。
ちょっとほのぼのした昼下がりのお話し。

※前回日記とは全く違い、子どもらしく微笑ましい一面、
そんな面をたくさん増やせていけると良いな。
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::あたりをつける(ピンとくる言葉が思いつかない)
もろもろ時系列に添って書いていきたいのですが、
最近特に気になる点について、先に書いておきます。

タイトルの『あたりをつける』以外に今は言葉が思いつかない。

最近の息子が取る行動について…
家庭内でも外でも基本的にはこの行動は同じだけれども、
私が不登校をした娘と息子を切り離して考えられなかった結果、
単身赴任中の主人の元へしばらくの期間行っててもらった。
そしてそこから帰宅後、その行動がやたらと気になっている。

あたりをつける行動とは、
仲間に加わりたい時、何かのニーズがある時などの場面で、
ストレートに「入れて」だったり「これこれしたい」をまず言わない。
例えば、兄弟や友人が遊んでいてそこに加わりたい時、
少し距離を保ったままで、咳き込む・モノを落とす(音をたてる)
など気を引く事を事前にし、そこにいる人らの反応を伺う。

何とか自分からでは無く、
そこにいる人たちの方から声を掛けてもらえるように仕向ける。

この話はずっと以前に書いたと思う。
『要求をストレートにしない』と確か怒りながら書いてた。

今回のこれは明らかに私のとった行動からきてると思う。
時間を掛けて、その部分が改善されてきてたのに完全に戻ってしまった。
ここで感じたのは今は怒りでは無い。
哀しいような歯がゆいような…。

主人はこれらの言動を『気持ち悪い』と表現した。

そう、確かにそう目に映る。
子どもが全く子どもらしからぬ行動をしているから。

行きつ戻りつ、字の如く。
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::やっと落ち着いた
長い療養期間に思いがけずなってしまいました。

インフルエンザ(A)から肺炎へと、胸水も溜まりまだ抗生剤は服用中ですが、
ようやくPCに向かう事が出来ました。

春休み、全部の期間病気で床に伏せて過ごしてしまった。

この期間に、息子も戻り、そして父ちゃんも戻り、
娘のサポート依頼を学校へと出向き本日面談もして来ました。

それぞれの様子や取り組みを記録再開していこうと思ってます。
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